『アイヌ神謡集』知里幸惠 編訳 (岩波文庫)


2022.10.03

今回は、『アイヌ神謡集』という本のご紹介です。

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言わずと知れたことですが、アイヌは、現在の北海道が本州とひとつづきの国――日本の一部となるずっと前からそこに暮らしていた、先住民族です。

アイヌは文字をもたないものの、口伝の物語(ユカラ)で民族としての豊かな文化を育み、子々孫々へと受ついできました。やがて本州側からやってきた和人が持ち込んだ生活様式によって、ほかの歴史の例にもれず、その文化が失われんとする流れもありましたが、アイヌの伝統と誇りを忘れない人々や彼らに共感する和人たちによって、現代にも多くの資料が残され、またその文化を守ろうという人々の活動が今も続いています。(参考:https://ainu-upopoy.jp/ainu-culture/

『アイヌ神謡集』は、大正時代に「左頁に物語(ユカラ)のローマ字書き起こし文」「右頁に日本語訳」という形式で著されました。

現代では、アイヌ語はカタカナで表記されています。しかし、異なる発音をもつ言語間の通訳でままあるように、聞こえる音をほかの言語の表記に落としこもうとするさいに省かれてしまう細部があり、時代や訳者の考えの違いによるバリエーションがあります。物語の「ユカラ」ひとつとっても、「ユカラ」「ユーカラ」と記す人がいる一方で「ユカラ(ラが小字)」との表現も出ます。

著者の試みとしては、ローマ字(アルファベット)表記に落とし込むことで、日本語の発音には欠かせない「あいうえお」の母音への依存を弱め、よりアイヌ語そのままの強弱と発音を記そうとしたのでしょうか。

個人的にこの形式はとても好ましく、馴染みのない言語としての意識をもちながらアルファベットの文字列を目で追い、右頁の日本語訳と見比べ、気になる表記を見つけては著者の意図を想像しつつ発音してみようとする、という楽しみ方をしています。ちなみに、先ほど挙げた「ユカラ」は、アルファベットでは「yukar」。最後に母音はなく、なるほど「ラ」を小字にするのも頷けるというものです。

著者の知里幸惠は、父方に登別のアイヌの豪族、母方に敬虔なクリスチャンという文脈をもって生まれました。アイヌ語を母語とし標準語も堪能で、女学校では成績優秀。そんな彼女であったからこそ本著のような、平易でありながら生き生きとして、年長者が年少者へ語りかけるような温かみを存分に内包した日本語訳を成しえたのでしょう。

惜しまれるのは、この秀才がわずか19歳の若さで天国へ旅立ってしまったこと。

彼女が長く活躍してくれれば、もしかしたらアイヌの物語は私たちの生活にもっと身近であったかもしれないと思わされます。

ぜひご一読ください。

矢野